曹洞宗 白毫寺
ご挨拶
名古屋市南区、白毫寺の寺歴は元亀二年、桂岩昌玖大和尚開山となり 又、天正四年鳳巌珠公師開基となり、草庵を法地起立開山となりました。 元緑年間に本堂が建立され(戦災焼失)庫裡の大改築、山門を建立。 天保時代、十三代無着黄泉大和尚は「東海禅林」の修行道場を開き 参学の雲水・学僧が多く集まったといわれております。
名古屋市南区 白毫寺【年魚市潟】
当寺境内地は、松巨島の北西部に位置し高台地の下は「年魚市潟」と称せられておりました。 最初の文献にあらわれたのは、日本書紀草薙剣のことを書いた条に、「剣今在尾張国年魚市郡熱田」とあるのが始めと云われます。 奈良時代に至り持統天皇が三河国へ行幸遊ばされた時高市連黒人も随行し 「桜田へたづなき渡る年魚市潟潮干にけらし鶴鳴きわたる」の歌も その時に詠んだと云われ、万葉集第七巻に 「年魚市潟塩干にけらし知多の浦に朝こぐ舟も沖による見ゆ」という歌もあります。
東海道が出来るまで
鎌倉時代に至り鎌倉海道も整備され桟敷山、仙間山の谷間に湧き出る泉(あゆち水と称せられ後世愛知の語源と云われる)で、喉をうるおし、草庵に憩い、旅の疲れを癒やし、風景を賞でたと云われております。 この海道は、東海道が出来るまでの主要道路であり、当寺の北の石垣の下の道が、 その面影を残す処と云われております。 江戸時代になり、俳聖芭蕉が当寺を数回来訪され「春風や戸部山崎のやねの苔」 の句碑が立てられております。 又、小堀遠州公も度々来寺され、詩歌茶事等、風流を楽しまれたと伝えられております。
年魚市潟
時移り、大正天皇御即位の礼が、京都で行われた時、愛知県が悠紀斉田に勅定され、 大嘗祭の式場の屏風に年魚市潟と桜田の絵が描かれ、明治の元勲黒田清綱公が、 自作の歌を書かれたのでいよいよ年魚市潟が世人に知らるるに至り、大正九年には 愛知県より文化財名勝の地として、大きな石標が建てられました。 又、清綱公の「わたつみの神もほぐらしあゆちがたちたの浦なみ千代の声して」 の歌碑も立っております。
昭和四十八年文化財の法令が改定され、改めて名古屋市の旧「年魚市潟」展望地と 名勝指定されました。